幕末、外国人居留地にあった築地ホテル、そして聖ルカ礼拝堂。
時は過ぎて幕末。開国を迫る黒船来航など、幕末には多くの外国人が江戸にも入るようになっていた。そんな際に起きた薩摩藩士によるイギリス高官殺傷事件「生麦事件」のあった生麦には現在でも魚河岸が残されている。魚河岸商店街の何代目かの大将に以前お話を聞いたことがあるが、徳川幕府から川崎、横浜辺りの湾内の漁業権をもらって操業し、採れた魚貝類は江戸城に献上していたいという。そして幕末、黒船来日から日本を守るために幕府は日本海軍を作るために海軍の教練所を作った。その跡地が勝鬨橋の手前にある。勝海舟もここの軍艦操練所で先生役を担ったとされるが、その後火事で消失し、その跡地に外国人居留地用のホテル「築地ホテル」という当時としては珍しい洋館のホテルが建設されたが、こちらもわずか4年後に火事で消失してしまった。明治維新の翌年、1869年に築地は外国人居留地として指定され、外国人はここの居留地にいるように制限されていたが、彼らの中ではアヘンの密輸などの不法行為も横行してたという。1874年(明治7年)にはアメリカ公使館が横浜から移築され、現在でもその建物は残されている。同じ敷地内に1900年に建てられたのが、聖ルカ礼拝堂で、現在でも聖路加国際病院旧館として利用され、2階のチャペルでは礼拝やパイプオルガンのコンサートなども開かれ、入場も無料で開かれた礼拝堂として今でも価値ある空間を保っている。都会の真中でこれだけ歴史ある静寂に包まれた空間が自由に見学できるのも、とても貴重なことだと思う。この明石町一帯にはその他にも慶応義塾大学発祥の地、立教学院発祥の地、蘭学事始の地などの記念碑が町のあちこちに残されており、歴史とインテリジェンスを感じさせる町だ。もともとは播磨明石からの漁民たちが移住したから明石という名前が残っているとも言われ、また佃島も徳川が連れてきた摂津国(現在の大阪市淀川区佃)から由来していると言われ、明治以降の東京も関西からの影響が色濃く残されていることが分かる。たしかに、歴史的には京都の方がはるかに古く、東京の歴史は江戸以降になるので、まだ40年余りということになる。
大正の関東大震災で消失後、日本橋魚河岸が移転。
大正12年(1923年)の関東大震災で壊滅的な打撃を被った東京の町。それを機に日本橋魚河岸がこの地に移転し、以来、長年東京の胃袋を支えてきたのが築地卸売市場だ。都心に近いので流通はとても便利。しかし100年近く使われている建物はたしかに古い。場内の卸売市場の中を歩くとそれがよく分かる。火災のリスクもあるし、はっきり言って清潔感がない。猛暑の夏など、ここで生鮮品を扱うことを想像すると、大丈夫かなという不安もよぎる。だから建て直すか移転するというアイデアは悪くないと思うが、あと数年で豊洲に移転し、東京オリンピックも開催される。昨日、マッカーサー通りが開通しが、豊洲から都心へモノを運ぶためには、晴海や月島の島を通らなければならない。つまり橋を渡ることになるが、ここがボトルネックになっているので、今までのようにさっと都心へトラックが走り出すことができなくなりそうだ。駐車場のキャパシティも不足しているような計画らしいが、築地といい、新しく建て直す国立競技場といい、最近の都市設計は大丈夫なのだろうか。果たして10年後の東京はどんな風景になっているのだろうか。そんなことを感じながらの東京散策だった。
Cover Photo:Yoshifumi Ogawa
Gallery Photo:Hideo Miyazaki , Toshikazu Sasagawa
Text:Hideo Miyazaki
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